長野と新潟の県境未確定エリア

県境がはっきりと定まっていないという場所は日本に意外と多いようです。

長野県北安曇郡小谷村と新潟県糸魚川市の接している県境もそのひとつの例です。

地図を見ると、この2つの村が接するあたりの1キロメートルあまりの県境が途切れています。

県境が未確定なのは、この一帯はもともと山奥にあって住民がおらず、県境について話し合うということがなかったという理由があります。

また、戦国時代に武田信玄と上杉謙信が領土をめぐって争っていたことが理由とも考えられています。

武田信玄は、小谷村が山をひとつ越えれば越後の領内となったため国境警備を厳重にし、上杉謙信のほうも小谷村に接している領内の警備に気をつかっていて、両者の緊張感は江戸時代まで続きました。

1700(元禄13)年、越後の住民が「信濃の住民が越後の領内に勝手に来て山で草を刈っていた」と幕府に申し立て、論争に火が付くという事態にまで発展しました。

そして現在でも、小谷村と糸魚川市のあいだで県境の合意はなされていないままです。

ただ、両者が歴史的な背景を引きずっていまだに敵対しているから県境の合意ができないというわけではなく、お互いに協力体制を築いていて良好な関係にあるのです。

姨捨山の姥捨て伝説

長野県千曲市と東地区馬郡筑北村の境界にある冠着山(かむりきやま)には冠山、更科山など別名がいくつかあり、俗称で姨捨山(おばすてやま)とも呼ばれます。

山頂からの眺めはすばらしく、小さな水田の1つ1 つに映る月の美しさから姨捨山の田毎の月という言葉ができ、2010年には姨捨の棚田として長野県初である国の重要文化的景観として選定されました。

姨捨の由来となった姥捨て(うばすて)伝説は、年老いて歩けなくなった自分の親を山に捨てにいくというものです。

この伝説は古くから大和物語や今昔物語などによって語り継がれ、その多くは、後悔した息子が山から親を連れ戻したり、姥捨てのお触れが取り消されたりして再び一緒に暮らすことができたという結末になっています。

実は、姨捨山の地名の由来が姥捨て伝説というのは、つくり話のようです。

墓地のことを日本の古語で「オハッセ」といいますが、オハッセが転じて「オバステ」となり、姨捨の字があてはめられたそうです。

そしてこの地がむかしは墓地だったことから、現在の姨捨山と呼ばれるようになったといわれています。

姨捨山と聞くと、例の姥捨て山の伝説を思い浮かべる人が多いでしょうから、紛らわしいですね。

長野県の赤穂

長野県に赤穂という地名があります。

赤穂というと忠臣蔵の赤穂浪士ゆかりの地であり赤穂の塩でも知られる兵庫県の赤穂市がありますが、兵庫県の赤穂は「あこう」と読み、長野県は「あかほ」と読みます。

長野県の赤穂は1875(明治8)年に筑摩県伊那郡の赤須村と上穂村が合併してできた地名で、両村から1字ずつとって名付けられました。

そして1914(大正3)年、伊那電車軌道(現・JR飯田線の一部)の「赤穂駅」が開業します。

駅の名前としては兵庫県の赤穂より先であり、7年後に赤穂鉄道が開通して誕生した兵庫県の駅名のほうは重複を避けるために「播州赤穂」と名付けられました。

長野の赤穂村は、ほかの村とも合併したのち町制施行して赤穂町となり、1954(昭和29)年に宮田町、中沢村、伊那村と合併して駒ケ根市が発足し、赤穂町は廃止されます。

駒ケ根市の地名は、木曽駒ケ岳の山麓に位置するという立地にちなんでつけられましたが、駒ケ根というのは隣村にあったキャンプ場の名称です。

その5年後に「赤穂駅」は「駒ケ根駅」と改称されました。

ちなみに赤穂の地名は「長野県駒ケ根市赤穂」と現在でも残っていて、赤穂の名を冠した学校である赤穂小学校・赤穂中学校・赤穂高等学校も存在します。

信濃の由来

長野県は、信濃や信州と呼ばれます。

信濃の「の」は野原の「の」の意味で、信濃は「しな」の多い野原ということです。

では「しな」が何かを意味するのかというと、植物の「科(しな)の木」だという説が有力です。

信濃は長野県の古い国名ですが、もともとは科野という字を書き、信野を経て信濃になりました。

国学者・本居宣長は、信濃国は山が多く、科の木が多かったことので「しな」のつく地名が多く、信濃の語源であるとしています。

科の木は現在でも長野県内に多く、長野市の「市の木」にもなっています。

しかし、「しな」という地名が指していたものは科の木ではなく別のものという説もあります。

信濃にある「しな」のつく地名は、更科、倉科、前科、仁科などで、ほかにもたくさんあります。

南安曇郡の豊科という地名は、鳥羽、吉野、新田、成相の4集落の頭文字「とよしな」から名付けられたものであり科の木とは関係ありませんし、更科、仁科などは段丘の地形であり、「段差」を意味する古語の「科」や「級」に由来して「しな」の地名がつけられたといいます。

ちなみに信州という呼び方のほうは、国を意味する「州」を信濃国の「信」とくっつけて信州となったようです。

宿場町だった中軽井沢

しなの鉄道しなの鉄道線の「中軽井沢駅」は、かつて「沓掛駅(くつがけえき)」という駅名でした。

沓掛駅は、旧国鉄の信越本線の駅として1910(明治43)年に開業しました。

古来、わらじを履き換える場所のことを沓掛といい、難所などを越える手前にあった場所のことも指しました。

沓掛の名称は、駅名どころか地名さえも現在では残っていませんが、むかしは交通の難所だった碓氷峠を控え、中山道六十九次の宿場町として栄えていて、江戸時代には軽井沢宿、追分宿と並び浅間三宿と呼ばれていました。

明治時代になると宿場町としての機能が失われ、沓掛は衰退していきます。

1888(明治21)年に英国人宣教師アレクサンダー・クロフト・ショーがこの地の風情に魅せられて別荘を建てると、彼に紹介された政財界の大物や文化人たちもやってきて沓掛は別荘地や観光地へと変貌、欧米の雰囲気が漂う地として人気となりました。

こうして軽井沢ブランドが出来上がったのです。

そして1956(昭和31)年に沓掛駅は中軽井沢駅と改名され、4年後には沓掛の地名も中軽井沢と改められて、沓掛の名前は過去のものとなってしまいました。

いまでも宿場風の建物は見られますが、かつて隆盛を極めた宿場町としての面影はありません。